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御所市柏原246「神武天皇社」 新設と再設 新設の再現

2016/09/22
9/17日の事、葛城から明日香へ向かう途中寄り道をして、御所市柏原の神武天皇社に行った。通常神社は比較的わかりやすい場所にあると思うが、この場所は知らずに行くと通過してしまいそうである。広くない境内の案内板を読む。読んでもすぐに忘れるので写真に記録す。

近くにホホマ神社があると書かれていたので当てずっぽうに歩く、がそれは直ぐに分かった。神社から南へ突き当たるとホホマ神社と思われるブロック塀に囲まれた幅一間ほどの場所があった。この奥に境内がある。行った時は閉まっていて入れなかった。(9/21再訪した時は友人の案内で入れた)

昔(1975年)自転車で東北~北海道へ行ったことがある。その時知り合った友が目と鼻の先に住んでいる。今まで何度か行き来した仲で翌日(9/18)久しぶりに電話で話をした。

・ホホマ神社がある東西の道は旧街道筋でバスが通っていた。
・ホホマ神社がある旧街道筋には代々続く庄屋さんがある。
と、それを聞き神武天皇社は旧街道筋から~参道~神社と続くのである。神社北裏の川筋の広い道からの訪問ではわかりにくいはずである。

神武天皇社は以前から知っていたが特に興味がなかった。
イヤァ~どこで繋がる縁があるのかわからんナー

旧知の仲なればこそ言える事話せる事。ありがたいなぁ~

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2016/09/17 撮影

その由来書き全文を書いておきます。
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神武天皇社
 祭神は神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイワレヒコのミコト)で、
初代神武天皇の即位した場所であるといわれる。
享保二一年(一七三六年)の大和誌には「橿原宮。柏原に在り」
と記し、本居宣長も明和九年(一七七二年)の「菅笠日記」に
「畝傍山の近くに橿原という地名はなく、一理あまり西南にある
ことを里人から聞いた」と記している。
言い伝えによると、この地が宮跡にされると住民が他に移住
しなければならなくなるので、明治のはじめに証拠書類を全て焼却して
指定を逃れたという。
 本殿は流れ造りで、天保四年(一八三三年)九月正遷宮の棟札
がある。
 本社の南にある境内社「嗛間神社」(別名ホングワラの宮)は、
「サワリの神」と称され、神武天皇の前后」である吾平津媛命
(アヒラツヒメノミコト)を祀る。伝承によると、神武天皇が
大和を平定した後、三輪の大物主神の娘である媛多々良五十鈴姫命
(ヒメタタライスズヒメノミコト)を皇后に迎えたため、やむなく
この地に侘び住まいしたと伝えられる。その怨念が夫婦の縁を呪う
といわれ、昔から嫁入り行列はこの神社の前を通ってはならないと
されていた。
 里の北西には「本間山」(標高一四三メートルがあり、神武が
国見をした「掖上の嗛間(ほほま)の丘」であると伝えられる。

 平成二年三月吉日 新設
 平成二十五年三月 再設
         御所市観光協会
    贈 御所ライオンズクラブ
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文中解釈と補足
本居宣長(モトオリ・ノリナガ) 享保十五年五月七日(1730/06/21)~享和元年九月二十九日(1801/11/05)
「菅笠日記」すががさ日記・「嗛間神社」ホホマ神社・「本間山」ほんま山・「掖上」わきがみ
再設文中の(別名ホングワラの宮)のグはダと思われる?
平成二年三月吉日(1990年)新設
平成二十五年三月(2013年)再設

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では平成二年三月吉日 新設 はどのように書かれていたのか。ここからは推測。
神武天皇社
祭神は神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)である。
葛城(かつらぎ)王朝の初代である神武天皇の即位した場所であるといわれている。
本殿は流れ造りで四尺に三尺。

天保四年(一八三三)九月正遷宮の棟札がある。境内社に火産霊社、厳島社、
ホンダワラ社がある。ホンダワラ社は土佐街道の南側にあり、サワリの神とも称する。
祭神はアヒラツヒメノ命。王城院・地蔵堂が側にある。

社殿の巨石は明治年代に「越智山(おちやま)」から搬出したもの。
本社の南にある字「ヨウバイ」は神社をふしおがんだところ。字「御酒田」は神社に献上するおみきの米をつくった田であるという。

享保二十一年(一七三六)の大和誌には「橿原神宮柏原村に在り」と記し、
本居宣長も明和九年(一七七二))の「菅笠日記」に、畝傍山の近くに橿原という地名はなく、一里あまり西南にあることを里人から聞いたと記している。

里の北西に143メートルの本馬山がある。神武天皇が腋上の
嗛間丘(ホウマノオカ)に登って、国見をしたといわれているが、今でもこの地方を掖上(わきがみ)という。

平成二年三月吉日
    御所市教育委員会
寄贈 御所ライオンズクラブ 

と推測するのである。
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新設と再設「新設」はどのようにして再現したか・・・
ネット上で書かれた由来記事を集め、日付け順に並べ全体像を形作った。
以下はその参考資料読まなくても良い!

その一
20050911
境内に掲げられていました由緒を記しておきます。

天保四年(1833)九月正遷宮の棟札がある。境内社に火産霊社、厳島社、ホンダワラ社がある。ホンダワラ社は土佐街道の南側にあり、サワリの神とも称する。祭神はアヒラツヒメノ命。王城院・地蔵堂が側にある。

社殿の巨石は明治年代に「越智山」から搬出したもの。本社の南にある字「ヨウバイ」は神社をふしおがんだところ。字お神酒田は神社に献上するおみきの米を作った田であるという。

享保二十一年(1736)の大和誌には「橿原神宮柏原村に在り」と記し、本居宣長も明和九年(1772)の「菅笠日記」に、畝傍山の近くに橿原という地名はなく、一里あまり西南にあることを里人から聞いたと記している。

里の北西に143メートルの本馬山がある。神武天皇が腋上の?間丘に登
って、国見をしたといわれているが、今でもこの地方を掖上という。
平成二年吉日
         御所市教育委員会
         御所ライオンズクラブ
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その二
20080804
神武天皇社
  境内にあった説明板によると、

神武天皇社(じんむてんのうしゃ)祭神は、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)である。葛城(かつらぎ)王朝の初代である、神武天皇の即位した場所であるといわれている。本殿は流れ造りで四尺に三尺。

天保4年(1833)9月正遷宮の棟札がある。境内社に火産霊社、厳島社、ホンダワラ社がある。ホンダワラ社は土佐街道の南側にあり、サワリの神とも称する。祭神はアヒラツヒメノ命。王城院・地蔵堂が側にある。

社殿の巨石は明治年代に「越智山(おちやま)」から搬出したもの。本社の南にある字「ヨウバイ」は神社をふしおがんだところ。字「御酒田」は神社に献上するおみきの米をつくった田であるという。

享保21年(1736)の大和誌には「橿原神宮柏原村に在り」と記し、本居宣長も明和9年(1772))の「菅笠日記」に、畝傍山の近くに橿原という地名はなく、一里あまり西南にあることを里人から聞いたと記している。

里の北西に143メートルの本馬山がある。神武天皇が腋上の■間丘(ホウマノオカ)に登って、国見をしたといわれているが、今でもこの地方を掖上(わきがみ)という。

平成2年吉3月吉日
    御所市教育委員会
寄贈 御所ライオンズクラブ 
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その三
20100330
天保四年(1833)九月正遷宮の棟札がある。境内社に火産霊社、厳島社、ホンダワラ社がある。ホンダワラ社は土佐街道の南側にあり、サワリの神とも称する。祭神はアヒラツヒメノ命。王城院・地蔵堂が側にある。

社殿の巨石は明治年代に「越智山」から搬出したもの。本社の南にある字「ヨウバイ」は神社をふしおがんだところ。字お神酒田は神社に献上するおみきの米を作った田であるという。

享保二十一年(1736)の大和誌には「橿原神宮柏原村に在り」と記し、本居宣長も明和九年(1772)の「菅笠日記」に、畝傍山の近くに橿原という地名はなく、一里あまり西南にあることを里人から聞いたと記している。

里の北西に143メートルの本馬山がある。神武天皇が腋上の?間丘に登って、国見をしたといわれているが、今でもこの地方を掖上という。

平成二年吉日 御所市教育委員会  御所ライオンズクラブ
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その四
20110222
以下、境内掲示板より・・・・・・

祭神は神倭伊波札毘古命である。葛城王朝の初代である神武天皇の即位した場所であるといわれている。本殿は流れ造りで四尺に三尺。

天保四年(一八三三)九月正遷宮の棟札がある。境内社に火産霊社・厳島社・ホンダワラ社がある。ホンダワラ社は土佐街道の南側にあり、サワリの神とも称する。祭神はアヒラツヒメノ命。王城院・地蔵堂が側にある。

社殿の巨石は明治年代に「越智山」から搬出したもの。本社の南にある字「ヨウバイ」は神社をふしおがんだところ。字「御酒田」は神社に献上するおみきの米をつくった田であるという。

享保二一年(一七三六)の大和誌には「橿原神宮柏原村に在り」と記し、本居宣長も明和九
年(一七七二)の「菅笠日記」に、畝傍山の近くに橿原という地名はなく、一里あまり西南にあることを里人から聞いたと記している。

里の北西に一四三メートルの本馬山がある。神武天皇が腋上の?間丘(ホホマオカ)に登って、国見をしたといわれているが、今でもこの地方を掖上という。

平成二年三月吉日
御所市教育委員会
寄贈 御所ライオンズクラブ
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その五
20130314
神武天皇社
祭神は神倭伊波礼毘古命である。葛城王朝の初代である神武天皇の即位した場所であるといわれている。本殿は流れ造りで四尺に三尺、

天保四年(1833)九月正遷宮の棟札がある。境内社に火産霊社、厳島社、ホンダワラ社がある。ホンダワラ社は土佐街道の南側にあり、サワリの神とも称する。祭神はアヒラツヒメノ命。王城院・地蔵堂が側にある。

社殿の巨石は明治年代に「越智山」から搬出したもの。本社の南にある字「ヨウバイ」は神社をふしおがんだところ。字お神酒田は神社に献上するおみきの米を作った田であるという。

享保二十一年(1736)の大和誌には「橿原神宮柏原村に在り」と記し、本居宣長も明和九年(1772)の「菅笠日記」に、畝傍山の近くに橿原という地名はなく、一里あまり西南にあることを里人から聞いたと記している。

里の北西に143メートルの本馬山がある。神武天皇が腋上の?間丘に登って、国見をしたといわれているが、今でもこの地方を掖上という。

平成二年吉日
御所市教育委員会
御所ライオンズクラブ
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上記ここまでが平成二年三月吉日の由来を基にしたものである。
以下平成二十五(2013)年三月 再設 が置かれる。

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その六
20130919
神武天皇社
 祭神は神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト)で
初代神武天皇の即位した場所であるといわれる。
享保二十一年(一七三六年)の大和誌には「橿原宮。柏原村に在り」
と記し、本居宣長も明和九年(一七七二年)の「菅笠日記」に
「畝傍山の近くに橿原という地名はなく一里あまり西南にある
ことも里人から聞いた」と記している。
 言い伝えによると、この地が宮跡に指定されると住民が他に移住
しなければならなくなるので、明治のはじめに証拠書類を全焼却して
指定を逃れたという。
本殿は流れ造りで、天保四年(一八三三年)九月正遷宮の棟札
がある。
本社の南にある境内社「ほほ間神社」(別名ホングワラの宮)は、
「サワリの神」と称され、神武天皇の前后」である
「アヒラツヒメノミコト)を祀る。伝承によると、
大和を平定した後、三輪の大物主神の娘である
「ヒメタタライスズヒメノミコト」を皇后に迎えたため、やむなく
この地に侘び住まいしたと伝えられる。その怨念が夫婦の縁を呪う
といわれ、昔から嫁入り行列はこの神社の前を通ってはならないと
されていた。
 里の北西には「本間山」(標高一四三メートルがあり神武が
国見をした「掖上のほほまの丘」であると伝えられる。
平成二年三月吉日  新設
平成二十五年三月  再設
                御所市観光協会
           贈 御所ライオンズクラブ 
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今、神武天皇社の銀杏が大量に落ちて自由にお採り下さいと書かれていた。バケツに半分以上拾った。
d0342307_08593118.jpg
2016/09/21 撮影

あとがき:何か誤記があれば訂正・修正する。